――――そろそろ、片付けを始めよう。

 散らかした事柄が多くなりすぎた、今回ばかりは。

 くしゃくしゃの紙箱から、煙草を取り出した。ライターを口元に近づける。幾度か擦って見るが、火打石が湿っているのか火はつかなかった。ライターを、そっとポケットに仕舞いこむ。簡単な発火魔術でも使うか、と、瞬く間思案し、遠くに歩み寄る人影を見咎めた。

 ―――――不意に。

 肩に当たった感触に空を見上げた、鉛色の空から、粒の大きい雨が降り始めている。焼き付きそうな速度で回転する頭を、少しは冷やしてくれるだろうか。コートの前を、出来る限り開ける。なるべく速く撃てる様に、右手用のホルスターは右太ももに括り付けた。雨でしけってきた煙草を吐き捨てる、妙な苦味が舌先に広がった。気になるが、今は気にしている暇など無い。隙あらば殺す。そんな殺気をぶつけたばかりなのだ。血の気が一気に爪先から抜けてゆくような緊張感、手足の先が、冷たい。揺らぐ空気に誘われるように、視線を空から地上へと向けた。

「そろそろ来る頃だろうと思っていたよ」

 ひりつく喉で、そう言った。それ以上は言葉が出て来そうに無い。

「引け」

 向けた視線の先、雨に打たれながら南雲が歩み寄ってきた。似合わない神父服を、軽く羽織っている。男は雨に打たれながら、静かな声で言った。

「引け、お前を殺すのは惜しい」

 頷きたくなるのを、必死の思いで堪えた。どれ程の金額を積まれても、この場は譲れない。今、此処で南雲に道を譲れば、彼はジョナサンの脳髄を完膚なきまでに灰にするだろう。それでは困るのだ、脳髄を、ロンドンに送らなければならない。だから、答えなど考えるまでもなかった。

「そうは行かない」

「協会に義理立てか?」

 幾分腹立たしそうに、苛立ちを顕にしながら南雲が尋ねた。言っていることはもっともだ、協会に貸しはあっても借りなど無い。だが―――譲るべき場所が違う。

「いいや」

「なに?」

 義理など知ったことか。

 金でもない。

 名誉でもない。

 もっとビジネスライクな感情でもない。

 あるのはただ―――










「ただ―――約束を違えたくないだけだ」









 ―――――ただ、約束を裏切らない。

      そんな小さなプライドに切嗣は頼っていた。

































                      「A good & bad days 8.」
                        Plecented by dora

































 /8

 罠はすべて仕掛け終わった。後は、追い込まれた猪が、反撃に突っかかってきたのを落とし穴に落とすのみだ。

 机の上に、デートの待ち合わせ場所と時刻を残して、切嗣はアパートの玄関を出た。この街でやるべきことはもう多くない。出来ることも―――ジャケットを羽織り、煙草に火をつけるために、ライターを探した。何処に仕舞った物か、幾らポケットの中を探っても見つからない。しくじった、そう思った。これでは銜えた煙草が無駄になってしまう。僅かに途方にくれながら、一度アパートを見上げた。大した記憶も無い、建物の外観。面白くもなんとも無いというのに、わずかに視界が滲んだ。涙腺が緩んでいる、もう少し多ければ、泣いていると表現されるだろう。その事実に、苦笑した。珍しいこともあったものだ、。煙草に火が着いていない以上、煙を避け損ねた訳ではない。気が付かないうちに、感傷に浸っているのだろうか。らしくない、まったくらしくない。そう、思いながら道を歩いた。目を瞑って、思い出すように記憶を探る。作業の様なセックスの中にも、少しは感情が含まれていたらしい。

 ――――まったく、馬鹿馬鹿しい。

 切り捨てた筈の感情が、今でも自分を翻弄する。非情にならなければ、とてもやっていけない世界だと言うのに、非情に徹しきれない自分が居る。これでは、早晩命を落とすことになるだろう。

 ―――それも悪くはない、か。どこか荒んだ心持になりながら、そう思った。道には、革靴の音だけが虚ろに響いている。それが、まるでメトロノームの様に意識を沈滞させる。

 不意に、緩んでいた表情が引き締められた。

 ―――人の気配だ。

 それも、あまり友好的な具合ではない。誰かが待ち伏せている。

 右手が、戦闘に備えてはらりと開かれる。先手を取るか、それとも相手の様子を見るか―――

 じりじりと緊張が高まる。そのとき―――

「―――生粋の飼い犬と野良から飼われた犬の違いを知っているか?」

 建物の向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。一つ息を吐いて、いつでも攻性魔術を解き放てるように、と、掲げた右腕を下げる。

「南雲、か」

 角の向こうから、男の腕が差し出された。右手の先にはライターが握られている。小さな擦過音、見れば、先ほどから欲しかった炎がちらちらと舞っている。ありがたく、それに煙草の先を近づけた。思い切り煙を吸い込んで、いらえを返す。

「―――いいや、知らないな」

「そうか」

 顔を見ることもなく、二人連れ立って歩き出した。特に語ることも無い、前に向けた厳しい視線からは、そんな気配がうかがえる。








「何か用があるんじゃないのか」

「今晩、ジョナサンを殺りに行く」

 簡潔な言葉で、南雲は告げた。

「それは困るな、仕事にならない」

「だったら俺より速く行け」

「譲る気は?」

「無いな」

 長く後ろに煙を流しながら、男たちは歩いた。

 既に互いの主張は平行線になっている。交わることなど、もはや考えられなかった。苦笑をすると、切嗣は必要なことだけを聞いた。

「いつだ?」

「雨が降り出す頃だ」

 南雲が角を曲がって離れて行く。それをしばしの間、立ち止まって見送った。空を見上げる。

「―――」

 この程度の曇り空なら、降り出すのは六時ごろだろうか。だいたいの辺りをつけると、ダグラスの店に向かう。

 四時ごろから待っていれば、外すことは無いだろう。








 湿った空気が、鼻に雨の気配を告げてくれる。くしゃくしゃの紙箱から、煙草を取り出した。ライターを口元に近づける。幾度か擦って見るが、火打石が湿っているのか火はつかなかった。折角買ったのに、と、少しだけ鼻白んだ。捨てるのもどうかと思い、ライターを、そっとポケットに仕舞いこむ。簡単な発火魔術でも使うか、と、瞬く間思案し、遠くに歩み寄る人影を見咎めた。

 ―――――雨の降り出す頃と言った男の言葉に嘘はなかった、ぽつぽつと降り出した雨に、肩をすくめる。

「そろそろ来る頃だろうと思っていたよ」

 これから死に行くものを哀れむ瞳。

 南雲の目に湛えられているのは、そんな色合いだ。どちらが死ぬか判らないと言うのに。

 ―――否。

 どちらかと言えば、分が悪いのはこちらだろう。

 魔術を使って加速した腕でも、相手の抜き撃ちとほぼ同じ速度。むしろ、南雲の方が速い。殺されるのは―――こちらになるだろう。

「引け」

 向けた視線の先、雨に打たれながら南雲が歩み寄ってきた。似合わない神父服を、軽く羽織っている。男は雨に打たれながら、静かな声で言った。

「引け、お前を殺すのは惜しい」

 頷きたくなるのを、必死の思いで堪えた。どれ程の金額を積まれても、この場は譲れない。今、此処で南雲に道を譲れば、彼はジョナサンの脳髄を完膚なきまでに灰にするだろう。それでは困るのだ、脳髄を、ロンドンに送らなければならない。だから、答えなど考えるまでもなかった。

「そうは行かない」

「協会に義理立てか?」

 幾分腹立たしそうに、苛立ちを顕にしながら南雲が尋ねた。言っていることはもっともだ、協会に貸しはあっても借りなど無い。だが―――譲るべき場所が違う。

「いいや」

「なに?」

 義理など知ったことか。

 金でもない。

 名誉でもない。

 もっとビジネスライクな感情でもない。

 あるのはただ―――

「ただ―――約束を違えたくないだけだ」

 ―――ちいさな自尊心。

 今までに約束を違えたことが無い。そんな小さな約束だけが切嗣を縛っている。

 一度受けた仕事をしくじるなど、あってはならないことだった。

「……魔術で速度を上げようとも俺のほうが速い。それが、早撃ちならなおさらだ。それが判っていてもか?」

「そうだ」

 返答に迷いは無い。

 立ち塞がるものがいるならば、それを押しのけてまかり通る。

 苦い笑いを浮かべて、南雲が一度視線を落とした。

「……そうか」

 何かを堪えるように彷徨っていた視線が、切嗣を捉えた。揺れる色合いは―――迷いのそれだ。不意に、両手をポケットに突っ込むと、南雲は視線を伏せて切嗣に語りかけた。

「前にも聞いたが―――生粋の飼い犬と野良から飼われた犬の違いを知っているか?」

「いいや」

 その問いには答えられなかった。と、言うより、答えなど無いと、切嗣は思っていた。
 
「飼い犬は主人に忠実なだけだ。だが、野良上がりは泥を舐めた分賢く生きる方法を知っている」

「何が言いたい」

「イレーネは飼い犬で、俺たちは野良上がり。そう―――思っていたよ」

 泥を舐めた、か。

 男の言うことはもっともだ。思い当たる節は、今まで生きてきた中で多々あった。自嘲じみた感情を、ゆがめた唇に乗せて応えを返す。

「そう―――かもな」

「―――だが違った、お前は犬ですらない」

 否定は即座に帰ってきた。言いたいことを把握できず、眉根を寄せる。何かの言葉遊びか、それとも―――言葉のどこかに呪文でも隠れているのか。幾ら考えても答えらしきもの見えなかった。

 ただ―――男が言いたいことだけを語っている。それだけが残された答えだった。

「―――?」

 何かを迷うように、それを口に出すことを躊躇うように。

 南雲はしばしの間、天を仰いだ。そうして―――





「お前は犬の群れに紛れ込んだ狼だ、鎖で縛り付けているつもりの主人と、幻想の鎖に繋がれた狼。―――それがお前だ」





 ―――そんな、聞いていて、気恥ずかしくなるような事を言った。

「―――」

「もう一度だけ聞く、聞く気は―――」

「―――今日は、口数が多いんだな」

「―――」

 これ以上、男の言うことに耳を傾ける意味は無い。

 喩え南雲が何を考えていようと、自分には関係の無いことだ。

「喋ってると舌を咬む、引く気が無いなら殺すまでだ」

「衛宮―――」











「―――構えろ、南雲光一。次の瞬きで命がなくなると思え」









 それが最後通告となった。緩みかけていた空気が、一瞬のうちにコンクリートの堅さを得る。にらみ合いは、瞬時に終った。絶対の自信の元、南雲の右腕が空を切る。ホルスターに向かって下ろされた指がグリップを握り―――銃声が響いた。

 男の顔が、微かに驚愕に歪む。見下ろす目は、自分の胸元と相手の手の内を往復した。

 切嗣の左手。

 確かに空手だった其処には、いつの間にか一丁のデリンジャーが握られていた。それも、ダブルバレルの廉価版ではない。ダグラス謹製の、極限まで早撃ちに特化したシングルバレルデリンジャーだ。

「お前、確かに右利きの―――」

「間違いじゃない」

 消えかける意識を繋ぎとめて、南雲は切嗣に尋ねた。肺にあふれる血が、ごぼごぼと声を濁らせる。

 呆れるほどに仕掛けは単純だ。

 ただ軽いだけの銃に、強化と固有時制御の応用。撃鉄を引いた瞬間に制御した時間を、向けたと同時に開放しただけ。反則といわれればそれまでだ。

 朽木を倒すように、南雲の体が後ろに倒れた。降りしきる雨が、路上に流れる男の血を洗い流していく。

 激痛に呻きながら、切嗣は男の傍に歩み寄った。ペテンを使ってなお、南雲との勝負は紙一重だったのだ。四十五口径が掠めた脇腹から、派手に出血している。濡れてしまえば血が止まらなくなる、速く止血しないと不味いだろう。そう思いながらも、切嗣は傷口を押さえようとすらしなかった。それがまるで―――正当な勝者に捧げる礼儀だとでも言うかのように。

 光のうせかけた瞳が、のろのろと切嗣を向いた。凄絶な笑みを浮かべながら、何処か満足そうに南雲が血と言霊を吐く。

「―――先に言って待っている、はやく、こい」

「それは無理だ」

 淀んでいく瞳に、もう聞こえはしないだろうと思いながら語りかけた。











「行き場なんて無い。僕の居るところは煉獄―――天国と地獄の狭間だ」










 〜To be continued.〜







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